強く逞しく考えよう

(1963.S38.1 社報 藤澤武夫)
経営と仕事
少しこじつけと思われるかも知れないが、経営と仕事とは違う。毎日、経営者が出勤して判を押したり、書類を見たりするのは、それは仕事と名付けたい。
企業には社是があり、経営の基本方針が決定されている。私は、経営とは、それに沿っているか、どうかを見守っていることだと思っている。
事故が発生したときに、迅速に処置したことをよくやった、とほめたのは、小企業の時代であって、大量生産になってからは、その被害が大きいことは、私達はいやというほど知っているはずである。大企業自体が事故発生(経営不振)してから処置をすることになると、その振り回しの大変なことは、昭和二十九年当時のこの会社とは比べものにならない。
ここでいちばん問題になることは、この会社の社員の動揺だけでなく、販売店や株主の混乱が、人びとの心をまどわし、それが抵抗となって、それ自体の回復する時間を、さらに遅延させるかも知れないということだ。
そのときの処理が上手といわれても、未然にそれを察知して経営されているものとの差は、これは、想像がつくはずである。
企業がスムーズに展開されて障害がなく、これからも同じように阻害さるべき要素を、未然に探究しておくことが、私は、経営だと思っている。
経営を阻害するのではないか、と考え始めてから、それを企業の表にあらわすまでには、半年以上もかかるときがある。実際のところ、その期間は苦しむ。
なぜなら、「悪い」という現象が、はっきりとでていないだけに、取り上げてよいものか、どうか。はっきりと理論的に割り切れるときは、これは楽なのだが。実際、小企業の時には、経営と仕事が同一だといってもよいから、六、七年前は、私も結構楽しみながら仕事兼経営らしいものをやっていたのだが。
経営者としての喜び
大企業になっては、経営というものは厳しいものであり、個人の趣味、興味というものとは関連がなくなってきている。
端的にいって、私には大きすぎるように思われる。将来のことを考えるとき、経営を会社全体の姿でやっていかれるようにしたいと思っている。
だから、今までもそうであったけれど、私は幹部の研修会には必ず出席して『ものの見方、考えの起点、具体的発展』という点を強調している。そのような基盤ができ上がれば、経営は次の時代を背負う人にとって、至極やりやすくなると確信しているからだ。最近はその研修会も以前から比べれば、心が浮き浮きするような素晴らしい論理の展開を見せてもらえるときが多くなった。"速度をはやめてくれ"と念ずるばかりだ。
しかし、私は会社の皆さんに話をする壇の上に立ったときに、温かく見守ってくれるのを感じ、経営者の一人としての喜びを味わせてもらっている。
それなら、経営というものが私の人生にとって、やはり最高のものだということになる。
飛躍への原動力

(1963.S38.8 社報 藤澤武夫)
創立以来十五年というごく短い期間に、零から出発し、我われが念願としていた"輸出企業"としても目ざましい成果をおさめつつある。かつて夢物語と思われていたそれを、今ここに実現し得たことは、何とも痛快なことではないか。
また、我われ自身の手で、ここまで輸出を生みだし、そして日本人の頭脳の優秀性を海外に発揮してきたことは、大いに誇ってよいことと思う。
しかし、こういうことは、一朝一夕にはできるものではない。数々の試練を克服しながら、我われ自らの力で、築き上げてきたのである。
十年前、四億円にものぼる機械を輸入したことがあったが、そのドルを、我われ自身の手で稼ぐまでは、と創立記念行事を延期したこともあった。
今ここで、未来に大きく目を向けるとき、我われは決して現状に満足してはならない、と思う。
私は、この創立十五周年を契機として、更に新たな確信を引きだしたい。
それは、年間四百五十億円の目標に向かって大きく飛躍することである。この数字がいかに高い価値を持つかは言わずもしれたことであり、しかも短い期間に成し遂げてこそ、真価となる。
この目標をいち早く達成することは実に至難であろう。が、その達成こそはホンダの、否、日本の輸出企業の発展史上に、燦(さん)たる金字塔を築くことになろうと、胸おどるのである。
それまでには、苦しみもあろうが、みんなが、それぞれ個性をいかし、意欲を燃やし、各事業所が一体となってことにあたるとき、これは驚くべき力になるだろう。
私は全世界の人びとの愛と庇護のもとに、この力を結集すれば、近い将来、必ずこの目標を達成できるものと確信している。
我が国は、輸出なくして繁栄なし、と言われるほど、輸出に大きな期待をかけている。
だから、これを成し遂げることは、従業員、株主、販売店、協力工場の方がたを含めた"ホンダ"の発展をもたらすだけでなく、社会に対し、国家に対し、真に貢献できることとなる。
この躍進への努力こそ、即国家への奉仕につながるとしたら、企業として、日本人として、これ以上の誇りと喜びがあるだろうか。
私はこれが達成された暁には、さらに夢満ちた記念行事を盛大にやりたい、と思っている。
どうか、明るくおおらかに、創立十五周年を迎えてもらいたい。
壮年の力を持った企業に

(1963.S38.12 やまと弘報 藤澤武夫)
ある懇談会の席上で、私はこんなことを言いました。チャーチルが書いた第二次大戦中の回顧録の中に"青年は革新を好む、中年は妥協を求める。そして晩年は保守だ"という。ところで、妥協というものは現在までのものの中へ革新的なものを入れて、そこから新しいものへ、そしてできうる範囲のものへとワン・ステップを踏むことが妥協だと言えます。で、保守であった場合は要するにもう晩年で、過去がよかったにしても保守だけではよどみができるのです。
これを企業にたとえて言えば、この両方を組み合わせてやっていくところにはじめて壮年の企業があるといえると思うのです。またこういうことをくり返して、常に新しい血が通ってさえすれば、企業というものは壮年の力を持つのです。
要するに、判断力とか知恵とかのいろんなものの積み重ねのうえに新しいものをのせて、それを咀嚼(そしゃく)してつぎの段階へ行く、それがなければたとえどんな架空なことを言ってみたところで、現実と離れていたら役に立たないわけです。今まで積みあげてきたものには多分にいいものが含まれている。今まで本田技研でやっていたことを否定したならば、たとえば今の設備があり、建物があり、財産があっても、あなた方とまったく別な七千人の人が入ってきたとすればこれは全然ゼロで価値がないのです。我われがやってきたことは相当価値の高いものなのです。これに肉づけしていけばまちがいない。過去はそうであったということだけでは、世界の荒波の中に入ってはいかれないのです。
伸びる大企業へ

(1964.S39.1 社報特別号 藤澤武夫)
ただ漫然と大企業に移行していくことは非常に危険なことで、資本金や売上が多いとか、従業員が大勢いるとかが、大企業の代名詞ではない、とみんなが再三認識しあい、日本に大企業の一つのあり方を示そうという意欲が感じられ、たいへんうれしく思う。
大企業のもろさ、欠点を認識しつつ、大企業に移行するならば、中小企業よりもはるかに効率が高いし、はるかに成長性もあるはずである。日本では大企業は成長が鈍るというのが通説だが、やはり大企業は伸びるというのが世界の原則である。
ところが大企業はなかなか伸びていかない。一見、伸びているように見えても、かなりの穴があいている。穴があいているからこそ、本田技研が町工場から大企業に入ってこられるわけである。
以前、我われは、その穴を認識しあっていこう、と言ったことが、現在どうかと言えば、私は充分うまくいっていると思う。
私達の選んだ道

(1965.S40.1 社報 藤澤武夫)
■もし、二輪だけを生産していたら
四輪車生産設備はSFを含めて七十億円以上、そしてこれまでの損失を三十億円とすると、ざっと百億円が四輪車を手がけたために費やした金である。
したがって、もし二輪車だけを生産していたら、借入金もそれだけ少なくなりそのときのバランスシートは、まず優等生となっていたに違いない。
■もし、他の四輪メーカーと同じ考え方で進めていたら
設備はするとしても、損失はもっと少なく、あるいはすでに多少の利益さえだせていただろう。
利益がでていれば、ホンダの四輪車は成功したと世間から評価されていたに違いない。
■ところが、私達が選んだ道は
前の二つの道をとらないで、私達が選んだ道は、二輪車で積み上げた知恵とあえて安易な道を取らなかった努力の過程を、今度は四輪車に注ぎ込み、全社苦しみつつ、おのおのの仕事を深く掘り下げることであった。
このため金を損失し、バランスシートを悪くした。
そしてホンダの四輪車は失敗ではないかとの世間の取り沙汰を受けた。
だが、そのかわり二年間五万キロ保証という大金看板をあげる自信がついたのだ。
これから五年先、十年先に、どの道が私達の夢に近いのかを考えてみるのも今年のお正月にふさわしそうだ。
四輪への道

(1965.S40.10 社報 藤澤武夫)
よそのメーカーさんより遅くスタートしたうちが、よそのメーカーさんと同じ車を出して安閑としていたら、完全な敗北を食う。
なぜなら、すでに地盤があり、店あり、市場ありで、全部の段取りができてしまっているところに乗りだそうっていうんだから……。
ただ普通のやり方でやっていたんでは駄目なんです。ここにうちの四輪の考えがあることをお分かりいただけると思います。
世界をリードする仕組みを

(1965.S40.11 社報 藤澤武夫)
変化に対応する新組織を
係長、班長というものは、数量なり、品質なりの与えられたものを、維持する役目はあるけれども、何か、刻々と情勢が変化する時には、「長」としてよりも、むしろ、その人「個人」として動いている。
ところが、係長、班長というものは、必ずしも、その問題のエキスパートというわけではない。
何でもかんでも、「長」が受けもっていってうまくいくわけはないんです。
ここに、古い組織図と、みんなで検討している組織図との違いがでてくる。
世界を常にリードしていける、つまり、ここ、一年や二年の勝負ではなく、五十年、百年というものをリードしていける体制をつくって、次の人にバトンを渡してゆく義務を我われは持っている。
重要なことは、いつでもリードしていけるには、どうすればよいかということですが、これは、刻々と変化する情勢を的確にキャッチして、企業の中に入れ、組織の中でこなして、それを安定させ、次の人にバトンを渡すということです。
世界に通用するエキスパート
今まで、どこの企業でも、人間の個性というものが充分に発揮できないような仕組みでやってきている。
だから組織を変えても、長を入れ代えても、ちっとも変わりばえしないんです。
人員整理をしなければならんようなときには、真先きに、管理職である「長」からやめていってもらうというようなことになっている。
だから、今日、「長」であっても、明日はどうなるかは、わからない。
しかし、自分がエキスパートであれば、これについては、今の世界の設備の中にあっては、エキスパートであるという自信があれば、何も恐れることはない。
そして、その場合に、私は、よそから、みんなを、引っこ抜きにくるだろうとさえ思っている。
よそから引っこ抜かれるような人材が、本田技研の中から続出すれば、本田技研のこの思想というものが、日本中に広がっていって、もっとすばらしい日本になると思う。
アメリカにも、ドイツにもない、日本の中にもない仕組みを、ひとつ、みんなの力で作っていっていただきたいものです。
不況のはなし

(1966.S41.1 社報 藤澤武夫)
私達は、いつでもマイナスがあれば、プラスがあるはず。
不況で悪いときには、気がつかない問題点をえぐる時機でもあったと考えれば、この日本の不況も、そう悪くばかりも思えないというものだ。
過去に長い年月、不況であった時期もあったことを思い起こせば、今回の不況も、まだ始まったばかりとさえ、言えるのだが……。
しかし、前の不況のときと違うのは、
あの時分は、軍を中心として企業が成り立つのが多かった。
今は、大衆一般を中心としていることだ。
しかも世界の大衆を。
どうやら去年が不況の底であったというときが、今年中にくるような気がする。
この私の占いが当たったら、
これからは、諸君の恋愛の占いを担当とする。
それにしても有難いことだ。
不況を知らずに、こうしてみんなで新年を迎えるとは。
いつまでも、こうあるようにしたいものだ。
近代産業への道

(1966.S41.11 社報 藤澤武夫)
ホンダの将来
ホンダは一見大変回り道をしているように見られるかも知れない。
技術、販売の面にもその例は数々あるが、生産設備への大量投資などもその例である。
設備を持たないで生産をし、儲けているメーカーもある。しかし大量の設備投資をいかした多量生産こそ近代産業の基本である。
多量生産を維持し、その特長をいかし、その時代にマッチした製品を作っていけば、そこに世界に覇をなす企業が誕生すると思うんです。日本でトップになれば、世界のトップになれるのです。言いかえれば、日本で勝たなければ、企業の未来は安泰でないのです。
近代産業にふさわしいやり方
近代産業にはそれにふさわしいやり方があるはずである。世界でいちばんの多量生産メーカーであり、最新鋭の設備を持っているホンダとすれば、世間が知らないうちに何とか解決しておかなければならない問題だ。設備投資が効率的に行なわれ、それが有効に稼働しなければならない。一本調子の生産だけでは、これからはやっていけない。
ホンダの連中にはこれをやる頭脳も力もあるはずだ。こういった点を、いろいろ考えてもらうように指導しなかったことを私は申し訳ないと思っている。"多く作る"だけでは多量生産企業ではないのです。
また、多量生産を可能とするためには、これにふさわしい販売がなされなければならないことは、言うまでもありません。営業もその方法、手段を考え実行すべきです。
そこで、製作所のみなさんにひとつだけ言っておきたいことがあるんです。
それは四輪について非常に苦労して販売に取り組んでいるときに、クレームをださないようにということなんです。クレームといってももう至極簡単で、そこのところをちょっとどうにかすればなんでもいな、といったごくつまらないものなんだ。しかし、そんなものでもお客さんにとっては重大なものだ。今の日本では、お客は、クレームのつくような車を買わなくとも済むようになっている。
アメリカでは一年間の二輪のクレーム代金が五億にもなる。パーツを飛行機で送り、お客さんにサービスをしてもおこられ、パーツを常に準備しておかなければならないので資本がいる。
この五億の金は我われにとって重要だ。我われの未来にカゲをさすものはこういうところにもある。これは検査が悪いんだとか誰が悪いんだとか言ったって、我われ全体がかぶるのだ。そのために、みんながつらい思いをし、茨の道をもっと、茨にするだけなんだということを忘れないでいてほしい。
四輪の売り上げにしても、全メーカーの総売り上げ台数は、十月は上向いているのに、ホンダは残念だけれど下向いている。値下げ当初、ちょっとよかったが、クレームがついて販売店は売る気をなくしてしまった。
しかし、ホンダの今の立場からしてこういったことは絶対あってはならない。今はこうした重要なときだ、ということを認識してほしい。
ホンダは今第二の転換期に入っている。
近代産業へ脱皮すべき時期である。
私は本当のことを言えば、来年あたりから、二位のオートバイメーカーにぐっと格差をつけてしまいたいと思っている。
幸い、四輪も一本立ちできそうだし、農機関係も充実してきたので、我われは世界の中で、もっともっとより優れた地位にありつきたいと思うんであります。
人間感情の尊重を

(1967.S42.1 社報 藤澤武夫)
対象の観点
ユーザーとメーカー、販売店とメーカー、代理店とメーカーなどそれぞれの関係と立場があり、それなりの人間感情というものがある。
我われにとって、メーカーからの議論はしやすい。しかし、ユーザー、販売店の立場からみることも重要であることをむしろ知るべきである。
営業とは人間感情をとらえるところから始まる。
同じ言葉でも、どの人が喜び、どの人が嫌うかということを充分知らなければならない。金や地位や物ではなく、あいつは好きだと思われることが必要だ。
お客さんからお金を頂戴する人の話し方がある。これを探すことこそ喜びがある。
私が話をすれば、納得させられるとよく言われる。これは地位だけだろうか。
それについて、私が皆に言えることは、「人間感情の尊重」……これに細心の注意を払っているからだということである。
「怒鳴る」ではないか、あるいは「高飛車」ではないかと言われるが、それでも、納得させられるのは何か。といえば「人間感情の尊重」の積み重ねがあってのことだと断言する。
従って、これのない人が、高飛車にものを言っても、鉄砲玉で、ハネ返りがない。
営業所設立の第一の眼目はここにおくべきだと考える。
営業は生きものである
営業には固定させることのできるものと、掴まえ固定してはいけないものと二つある。しかし、我われはよくその逆をやる。固定すべきものを掴まえないで、言いかえれば、掴まえる能力を持たないで、人間の数をやたらとふやす。また、掴まえてはいけないものを理論的だといって無理にネジふせる。
このあやまちは我われもおかしてきたし、代理店もやってきたに違いない。
私が営業は生きものであり、人間感情の尊重を強調する理由はここにある。
代理店のやっている仕事を営業所がやらないで、単に支店に持っていってはいけない。しかし、企業の中には「大勢の考えることのできる人」がいることを想起して、さらに深く掘り下げを必要とする問題は、この人達に持ち込んで解決してもらうべきである。
松明(たいまつ)は自分の手で

(1967.S42.12 講演録 藤澤武夫)
ホンダは、松明(たいまつ)を自分の手でかかげていく企業である。日本の自動車企業には前をいくものの明かり、その明るいところにくっついてゆくいきかたをするものが多い。たとえ、小さな松明であろうと、自分で作って自分たちで持って、みんなの方角と違ったところが何ヵ所かありながら進んでいく、これがホンダである。
その松明は、ここにひとつの扉を見つけて広い世界にでた。
大きな松明を持ったトヨタなり日産なりがある。その松明が照らすところのものは、先頭の人にとってはいいけれど、後続の人にとってよいか悪いか、うしろにいては分からない。いつ火が消されるのか。いつ目の前で扉がしまるかについて判断ができない。
そのたとえとして輸出のお話をしたい。ホンダは、今年間百六十万台の二輪車を生産しその五〇パーセントを輸出している。むろん、これは生産、販売、輸出とも世界で群を抜いた数字で、二番とはかけ離れた実績である。これは国家的見地からも非常な貢献である。このほどイギリスがポンドレートの切り下げを行なったが、なぜそうしなければならなかったかというと、やはり生産性の低下に加えて輸出と国内消費のバランスがくずれてきて苦境に立たされたためである。これはイギリスの歴史にとって取り返しのつかないことになった。日本も、ここで輸出について本気でものを考えていかないと、円とドルの建て値が変わってくるような場合、経済や文化まで多くのものを失わねばならなくなる。そんな意味からも、ホンダが八十万台の二輪車を輸出しているということは、日本の企業としてすばらしい意味を持っているのだと誇りに思うわけである。
では、なぜこんなに輸出をすることができるのかというと、これはやはりホンダが自分の松明をかかげてきたからにほかならない。かつて、代理店の皆様の方で品物が間に合わないときにもかかわらず、輸出の方へどんどん回してきた時期があった。当時、皆さんからはおれの方に回せ、品物がいくらあっても足りない状況だからどんどんよこしてくれと言われたが、そういうわけにはいかなかった。
国内でお叱りを受けても輸出に回さなければならなかった。今だから話せるわけだが、その頃は国内より外国に出す方がもうける率はうすかった。当時は外国にでる台数も少なく、一台当りの経費もたっぷりかかっていた。しかし、その苦しい時期をひと押しして通りすぎなければならぬというわけで、私たちは国内のもうけを見送って輸出をした。輸出にも呼吸というものがある。今日よい品物ができたから今日すぐ売れていくものではない。年月と、布石が必要である。
他のメーカーが、国内でラクにもうけているときに我われは輸出で汗を流し、世界各地の百★国以上に道をつけた。これは決してなまやさしいことじゃない。苦難の道だった。しかし、この努力が報われて日本の二輪車、つまりホンダのオートバイが世界へでていって認識され、かけがえのない信頼をかちとった。三年ほどたちますと、その信頼は確固としたものになる。新規のバイヤーが日本にきてもホンダの製品を取れないから、ホンダの他にないかということになって二番目からのメーカーは、それはもう楽々とそれこそハナうたまじりで輸出ができた。
全体が立ち上がる一つの組織図ができた

(1968.S43.7 社報 藤澤武夫)
いずれにしても、商品は負けない。そして、本田技研の中でみんなの力によって作ったものは、やはりみんなで解決していこう、ホンダの全部が、販売店もひっくるめた善意によって成り立とう、そして友情によって成り立とうというものについての布石は、ことしの四月でうてたと思うのであります。従って、専門店を発表し、専門店のおやじさん達がとびあがって驚いたときに、皆さん達が苦心苦闘の末に作った商品を売るにふさわしい販売網ができあがった。販売の組織図はあと肉づけしていけばよい。営業も工場に負けない。研究所に負けない。研究所も営業に負けない。あらゆるものが、全体が立ち上がる一つの組織図ができあがったことを感じたときに、一切のものが解決したときに非常な疲れを感じたのでございます。そのとき、たまたま役員室のほうから資格制度という、組織で私が最も願っていたものが発表され、全部の組織図が完了したのでございます。
この組織図についてひと言申し上げておきたいと思うのであります。企業は人だというのですが、しかし、その人だというのにその人が精いっぱい働けるような組織図を会社はだしているだろうか、これは経営のほうからすれば責任があるのでございます。だから、人が精いっぱいに働ける要素、そして企業がそれによって成長する要素というものを、これは三角形のピラミッドだけではいけないのだ、というところから、研究所の文鎮型をひとつ考えてくれないか、とここの創立の前に頼んだんです。
今年の顔

(1969.S44.1 社報 藤澤武夫)
まず緒戦が大事、最初の年に相当の打撃を与えないとまずい。しくじるとこの次の機会までにまた何年かかかる。鉄は熱い内にたたけ、商品は人気のあるときが肝心だ。冷たい人気になってからではどんなよい物も受け入れにくい。いつか完成すればよいだろうは駄目である。やるのはそのとき以外ない。絶対に強い、難攻不落だと思っているものへの挑戦だ。いくら知恵と努力を払っても多すぎるということはない。
革命とは、"昨日の常識を破ぶり、新しい常識を作る"ことだと中国の昔の本に書いてあった。何もこれは、政治だけのことではない。
トヨタ、日産は強い、他は駄目だというのが、今の常識である。我われが、この常識を破ぶるのだ。我われは世界に視野を求め、独創性を追求してきたのである。そのためにこそ、人一倍苦しんだのである。独創性こそ革命の母であり、物真似はどんなに成功しているかに見えても、革命とは縁がない。
"こんな考え方で商品を誕生させ"
"こんな型で売る"とは"今までの常識では思いもつかなかった"と言わせたら
"新しい常識を樹立したことになる"
自動車工業の中で、ホンダ以外ないのだ。
禍いを転じて福とする

(1969.S44 社報特典号 藤澤武夫)
ホンダが今日に至るまでには、いろいろなことがあった。一歩方向を間違えば、倒産してしまうような危機が何度もあった。しかしそういう危機を好機に転換し、幸福をつかんできたのは物の考え方によるのだと思う。
たとえば九月、安全問題について一部のマスコミからは不当なまでに騒がれ、販売には不利な背景にあった。このようなとき、「俺はこの際に、ユーザーを完全につかむんだ」と考えるか、ふらふらしてしまうかによって先々が決まることになるのだ。よいときがあれば悪いときもある。禍いを転じて福とするのは、信念があるかどうかの問題である。そして九月も終盤で底力を示し、Nシリーズはトップの座を譲らなかった。お互いの確固たる信念がそうさせたのだ、と私は判断している。
燃えつづける心

(1971.S46.1 社報 藤澤武夫)
どんなときにも、仕事への情熱が諸君を幸福に導くものであることを、忘れないでほしい。年老いた私など、退場もやがてくることだろうが、その後でも、このことに変わりはない。
業界全体が悪い時期になったときでも、燃えつづける心こそ、その底でさえ、チャンスを早く捕まえる原動力となるのだから。
学ばねばならないもの

(1971.S46.11 社報 藤澤武夫)
ホンダは企業全体としては、この際はゆったりと、確かに他の企業よりは恵まれた状態にあり、ありがたいことだ。
これは偶然がそうさせたのではなく、全社を挙げて、ある意志のもとに進めてきたからだ。ここに"日本の企業の転機がきている"というときに、我われもそのことを、部分的であれ大きな部門であれ、慎重に、謙虚に考えよう。諸君達が、これから会社にいる年月は長いのだ。やはり、初心に戻るくらいの心持ちで見直し、苦しくてもやり抜かないことには、長い期間の生活の平和はない。我われが学ばねばならないものは誇りうるものと同じように数多くある。
暖炉の灰

(1972.S47.11 社報 藤澤武夫)
最近、どこの家庭でも暖炉を焚(た)くことはないようだが、私はこれが好きだ。火に対する一種の郷愁があるからだ。
私の家に初めて暖炉が入ったのは世田谷に家を構えたときだ。そのときは日本人の建築家が作ってくれたのだが、そうとう奥行きの深いもので、かなり奥へ入らないと燃せなかった。あまり手前で燃すと、煙が暖炉の外側にまで出て部屋中大変だ。そうかといって奥の方で燃すと、火がすべて上へ上がってしまい、ちっとも暖かくない。
次に六本木へ家を引っ越したときには、外国人が設計を担当してくれた。今度は奥行きが非常に狭い。これでは家中が煙だらけになって困るのではないかと思ったが、案に相違して煙は家の中にでなかった。しかも、ずい分暖かい。
この二つの暖炉の差は、暖炉を生活の一部として使ってきた外国人の知恵と、それを単にデザイン的な観点から作った日本人のとの違いにあるのだろう。
私が暖炉に火を燃しはじめてから、かれこれ十年になる。しかし本当に燃し方のコツがのみこめたのは昨年だった。九年目にしてはじめて火の焚き方、火の動き方というものが分かったことになる。
もっとも、火を燃すこと自体が難しいというのではない。火を燃すことだけなら誰だってできる。問題は、いかに黒い灰を飛ばさない、あるいは残さないで火を燃し、まっ白い灰だけにするかということだ。白い灰は完全に燃えつくしたものだけに、非常に量が少ない。私が自分自身で十年間も暖炉に火を焚いてきたのは、単に暖をとるたげではなく、火への郷愁からでもあるが、結果からみると、いかにしたら、この白い灰だけを残すことができるかというコツを得るためだったようだ。
白い灰だけを残すには、薪の置き方、新聞紙の大きさ、丸め方、薪自体の性質など、慎重の上にも慎重を重ねなければならない。
それが万事うまくいって、白い灰だけがきれいに残っているような朝を迎えたときは、なんともいえないすがすがしい感じがする。
暖炉一つとってみても、ほんとうにいきた使い方をするまでには、こんなにも時間がかかり、それ相応の準備も必要なものなのだ。
歴史はくり返すというが…

(1973.S48.6 スズカ弘報 藤澤武夫)
歴史はくり返すというが、企業はくり返すことはない。今、十年前のあのオートバイを作ることは、まずない。しかしあれを作るときは、そのときなりに知恵も、努力も、才能も、開拓者精神もおり込んだはずだ。今見れば、それらは価値がないようであるけれど、そのときには立派な価値があり、現在の企業成長の基礎となったのだ。
学んだこと、思うこと

(1973.S48.9 監督者弘報特別号 藤澤武夫)
人はいつか退くべきもの
多くの会社の定年制が延びた。昔に比べて健康に働け、また、平均寿命も大幅に延びたからでしょう。
三日間位、寝不足続きに考えても間違いのない結論がだせるようでなければ、経営者とは言えない。平常のときには問題ないが、経営者の決断場の異常事態発生のとき、年齢からくる粘りのない体での"判断の間違い"が企業を破滅させた例を多く知っている。
この会社を好きで入社された大勢の人に、後継グループは誰になるのか、知っていてもらい、その間充分に観察してもらうのは、私達の務め、と思って、折にふれ、機を見て、言葉や、文章でこそ、表現しなかったが、この五、六年前から、してきた。
五十で死んだ信長には男性的展開の未来は画けるが、年を重ねた秀吉にはそれがない。創立二十五周年に退こう、と考えていた。
昭和二十九年の教訓
企業を起こすことのできる人は、異常に近い努力をする。その男性的魅力に、多くの従業員は、"それいけ、やれいけ"と、知恵、知能、努力でついていく。"無から有を生じないはず"を生みだし、新しい企業が誕生する。
優秀な資産内容などになって、堂々と、大企業と肩をならべるなど、あり得ざることをしごく当たりまえの顔をして登場する。先輩格の犯したであろう誤りを分析し、現代もまだ、生産企業に、流通企業に、延びてきているが、それはさておき、
昭和二十九年は大変な時期でした。いかに物価が今より安いとはいえ、年の暮れに、家族持ちでもたったの五千円が越年手当とは。
が、私流の勝手な想像で恐れいるが、そのときを通り過ごされたかたにとっては、つらかったが、大きな思い出となっておられることと思う。あのときを境に、中企業から大企業へと移行し始めたのを体験、いや、猛烈にそれへとさせた仲間だったのですから。
危機がひととおり解決したとき、私は自分に何か限界を感じたので、本社と離れた銀座の越後屋の二階の二十坪くらいな事務所を借りた。室の設計も思い切って斬新にと、はからずも今年のアイコンの審査員をしていただく東大の池辺陽先生にお願いした。四囲が真ッ黒な壁でした。当時、非常に評判が悪くて、実は困ったのでしたが、大企業への足掛かりを生みだそうと、考えて、一人で暮らした。最も急を要する課題として、資材、部品在庫を適切な生産数に対する数値を見いだしてもらうことを頼んだ。皆の努力は物凄かった。到底考えられないような十分の一近いものとなった。これは、トヨタ、日産にくらべても負けなくなったと、図表を作って、各製作所で私は礼をいいながら回った。
あらゆる部門が、急速に変った。
そのとき、"需要ゼロ"と市場調査にでたアメリカに、「二輪車の将来命運ここにあるよ」と、指摘して、国内販売網を作りあげた川島専務にでかけてもらった。実のところ、嬉しそうな顔ではなかったのは確かだ。このもの好きはでかけた。ヤマハやスズキは、この人に、感謝状をだすべきだと、私は思っている。
私の毎日の日課は、この室で、膨大な、チャーチル第二次大戦回顧録と向き合った。大事なところは何回も繰り返し読んだ。せっぱ詰まったとき、どうして、ゆとりのある考えになれるのだろうか。日本の権力者とくらべながら記憶だけで、二、三の例を書いてみる。
近頃空襲のサイレンの発令が早過ぎる。
街の消灯が早くなる。防空壕で過ごす時間も長くなる。両方とも、国民の精神と体力を疲労さす。発令は遅くせよ、と。
飛行機も、大砲も、あらゆる兵器が、圧倒的にドイツと差のある英国は、自国の船と借用のアメリカ船全部で、これの輸送をしてもなお足りない軍部に、「のどから手の出るほど欲しい兵器には違いないが、近頃、肉の配給が少なすぎる。船の一部を削って、食肉を輸送してほしい。この戦争は永いのだ。国民の体力を消耗させぬことが第一」と。
戦況が、そう変化もない毎日、ラジオの放送の回数が多い。同じ内容では、国民の精神を疲れさす。外のものにしてはどうか。
図太い神経のこの国民は、さらにゆったりと空襲に耐えたに違いない。
今度こそと、全力をかけたアフリカ戦線がドイツのロンメル将軍に破れた。英国議会は、チャーチル首相では駄目だと、首相不信任案を議会に提出することに決まった。この話を聞いたのはアメリカ大統領に、武器の供給だけでなく、戦争への参加を懇願していたときだった。急いで戻った首相の演説は忘れることのできないものだ。「このような最悪の事態のとき、一国の首相の不信任案が提出できる英国民と、英国議会は、自由社会なればこそだ。ドイツや、ソ連では考えられないことだ」と。票決の結果は、不信任案は、圧倒的数字で否決された。
その頃の日本の議会は軍部に押えられ、勇気ある発言をした代議士は憲兵隊に押さえられた。
人材の登場こそ企業の繁栄
中企業のよさは、小回りがきくことにある。人材が見つけやすい。が逆に、人材の入社が少ない。大企業の欠点は、その巨大な組織が人材の登場を困難にしているように思われた。そこで、目的を明瞭に、全従業員に告げて、現場の第一線の人から、第二、第三の本田宗一郎がその能力を発揮できるよう、登場できるような組織を作ってもらうことを提案した。これを、私の責務としようと決心した。
種々に角度を変え、次から次へと提案し続けた。大切なことは、興味を持ってもらえるものでなくてはいけない。ときには提案者たる私も、各製作所に入って、討議の仲間入りをした。"企業の牽引者となるべきエキスパート要員を無理なく、ピラミッド型の組織の中に入っていてもらうことが、企業の繁栄に最も必要だ"との結論が毎回議論としてはでるのだが、給与問題に関すること、当然労働組合との関連がでることなので、実施までには、いろんな段階を踏みつつ進んだため、十五年くらいの年月を要した。皆が考えて編みだした、この専門職制度は、今見事に成熟し、本田技研の逞(たくま)しさはここから生まれると期待している。
研究所の独立の経緯について
いつまでも、本田宗一郎一人を頼っての企業ではいけない。一人どころか、何人もの本田宗一郎をだしていかない限り、安心して生産企業はやれない。それには、 部門別でのエキスパート、総合するエキスパートなどなどが、企業の守り神。一生をかけて、"一つの道をやり遂げてもらう"には、研究所を独立させ、誇りある地位でなければならぬ。と、結論づきの強行提案を幹部--百五十人だったか--に検討を申し入れた。「必要なし」との答えだった。その時分、ストライキ後の第二組合的になっていた研究所だけに、その後始末的解決策と受け取られ、組合問題を悪化させることの懸念も討議者にはあったかとも思う。だから私は、絶対そんなことで、これを提案しているのではないと、繰り返し説明した。 「労働問題になるはずはない。皆の将来の生活にかかわる大切なこと、よく考えてくれれば賛成のはず」と強調した。「今のままの組織でも提案者の意向はいかされる。一般常識からいっても、特別な理由は見つけられない」と頑強な抵抗だ。中には、私が組織の中で生活したことがないからだ、と本気に言った人もいた。
二十人くらいずつに分かれ、討議し、また、月をおいて別のところで、人を組みかえ討議して、半年にも及んだ。が、依然として「必要なし」との答えではあったが、私の情熱と、私がこの会社でやった過去を買ってか、それほどまで言うのなら、という気持ちが大多数の心にあってくれたようだ。私はこの提案が通らない限り"大企業への足掛かりはない"と確信していたので、受け入れられなければ辞任する決意であった。この企業の分岐点が、このときにあったと、今でも思っている。
その間討議者全員が、神経質的な、私への抵抗、というのではなく、真剣に、正々堂々の議論をしてくださったから、また、職場に戻って、課の人達に話をしながらのことだったゆえか、研究所独立後の運営は、私が最も念願としていたものを根幹に、進展しての現在。
労働組合も、これを取り上げて問題としないでくれたことも、あわせて、ここで礼を言いたい。
社会環境も大きく変化するであろう、このときに、個人ではできない大きな問題を、グループとして、何十人もの本田宗一郎が、ここに同時に、誇り高く存在し、それと真正面に取り組んでいる。
私はどうも戦記物に縁がある。ドゴール大統領の第二次大戦回顧だ。チャーチル首相のそれ以上とさえ感じられた。これは、私の離れ座敷--お茶室と言っているが、そこで読んだ。この二人の今世紀の偉人が、難局にどう向かったか。私は教えられ、いくらか、経営者らしくなれた。
私はあることで苦悩が続いたとき、今監査役をお願いしている川原福三親父さんが「君、お茶室を作れよ。電話もおかず、外部と一切完全に遮断した生活をしなさい。自分の尊敬していたかたが、昔、そうなされていたことが、三菱にとって大変効果があったのだよ」と言われたので、「お茶はできませんし、またやる気もないのですよ」と返事をしたら、「仕事を離れ、会社にも顔を出さない人が、一人くらいいるほうがいいよ。とくに君のところの会社のような場合には」。最初は、会社に出ないでいるのが奇妙な具合であったが、怠け者の私には次第に居心地のよいところとなった。
SF構想
こんな時分に考えだした。トヨタや日産と大きく引き離されている四輪車企業。需要者の側からは、修理も、調整も、それらの会社と同じであるべきはずだ。メーカーはなおのこと、安心して生産できるような修理態勢がないかぎり、生産はできない。このSF工場の真の面目は、本格的排気規制の自動車が発売された後に発揮されるだろう。現在どのメーカーも規制の商品の生産見通しがない時点で、その代理店の修理マンが、お客様に「ハイできます」と言えるものか。言える会社が、一番遅れて出発したメーカーのホンダなのだから愉快だ。しかも、代理店、販売店は、このことには一切無関心で、日常業務をしていてもらって差し支えないのだ!
CVCCにふさわしい販売態勢が、SFとして取られていた。これは社会への大きな貢献だ。よくここまで言えるようにしてくれたものだ。
役員室構想
このお茶室の所産かも知れない。企業もだんだんに進展してきたので、重役全部が常時一か所に集まって、全社的状況を把握して、共通の話題をして決定してもらうのが、この構想。最初は抵抗されたかたもいたが、一年目のある日、役員室に入ろうとしたら、西田専務から「今日は、ここへは入らないでくれ」と言われた。その日の会議の結果、役員室は存続する、とのことだった。ある程度、最初は私が役員室運営のあり方などに参加していたが、一年ごとに、急速に減らし、四、五年前からは、完全に、この会社の経営は、私達二人から、役員室中心へと移っていった。いってみれば、創成期の時代から、展開期の時代へと移行していたのだった。
役員室設立以来、思えば、重大な問題が次から次へと起きた。それを処理することが、即ち、経営能力の力を蓄えたことになった。
いわゆる欠陥車問題で、国会での西田専務の答弁。あの時点で大変な勇気のいる役を買ってでて、あそこまで強い所信を述べた。有能な人にも辞めてもらい、若い人を抜擢する慣習を作るために、会社に功績のある人に不愉快な思いをさせたのも、企業の将来のためにしたことだが、自分が残るのはその人たちに申し訳ないことだ。自分は退きたい。とあるとき社長に話して、社長を飛びあがらせたのもこの男。勇気をもって、当たっていく次の経営者の成長。安心して退陣の機会を与えてくれた。
ちょっと嫌なこと
今、二輪車が、他メーカーに食われて、六十パーセント近かった占拠率が少しだが下がったようだ。キリンビールの独走にくらべて反対なのはなぜなのだろうか。
新製品が少ないからだ。との答えは、否定はしない。が、シビック発売前、発売後の真剣さにくらべて、二輪ではそれをやっているか。大企業、俺達は無条件に他のメーカーより偉いんだと、ただ、根拠もないのに思いこんではいないだろうか。かつて、大企業の中に割り込んだあの情熱が。王座に、今、"あぐら"をかいていることはないんだろうか。否、真剣に、二輪に乗っている人が、上から下までといっては恐縮だが、昔ほどいるのかなと、疑問を持ってはいけないだろうか。
社長は工場へ着くと、「車を出せ」と言って、乗っていた。ユーザーへの少しずつの配慮の積み重ねが、占拠率への積み重ねであったはず。
新製品を早く出すようにと、研究所だけへの重荷を責める以外にも、自分たちも何かあるだろう。
"天から降ってくるお金はねぇ"
要は人間の問題だ。資本でも、組織でもない。それ以上に大切に心掛けねばならないもの。
自分の職業を大切にする。
私の憎まれ口はこれで最後となったのだから、勘違いしているね、とばかり思わないでほしい。
現在の状況
CVCCという特殊な要素を除いても、次の四輪車はすばらしいものが出現するようだ。どうやら数々の体制を整えつつ、トヨタ、日産へと、挑戦の時機は迫りつつある。損失の多かった四輪も、小型を作って利益を生むところとなるのも近い。「損失が大きかったが、全部従業員の血と、肉となっている本田技研だ」と、本田社長は言い切っている。
が、物価が上がって資材へのしわ寄せは激しいようだ。ドルが安くなっての今日、役員室も大変なことだ。それに、かつては、従業員一人当たりの利益率が高いのをもって、ソニーと並び賞賛されたが、四輪車を始めてから、ぐんぐんと落ち、今は自慢するどころか、悪い方の仲間に入っている。これも解決する役目を次の経営者グループは背負っての登場だ。
若い人達だ。今、張り切っている。
諸君たちも、明るい未来を胸に抱かれて協力して、充分やってほしい。
社長との仕事の振り分け
社長は技術、私はお金に関係する仕事、これがスタートで始まった。二人とも勝手放題、思ったとおり決裁もすれば行動もする。一致することは"会社を大きくすること"。双方のすることに疑念、指示、苦情は一切ない。顔を見合わせれば、未来への夢のような話ばかりである。これほど楽しいことはない。資本金が二百万円なのに、月産二千万円する。
が、二人とも書類に印鑑を押した決裁はしたことがない。"口"で社長がよい、と言えば、会社は行動してもよいことになるのだし、私がしても、同じことになる。これは、周囲に大変すばらしい人材が、雲のごとくに集まっていたからできたのだ。四専務は、若手のパリパリだったし、今の役員室連中。それに、今この会社にはおられないで、独立されたり、会社の責任者として迎えられたりした大勢のかたがた。私達二人はどんどん即決する。それをみごとに事務的に、処理してくれた。二十九年の危機を迎えたとき、「生産調整をされるのなら問題はないですネ」と、元のホンダランド社長、そのときの三菱銀行京橋支店長鈴木時太氏が言われた。「そんなことはすぐしますよ」と答えたら、「本田社長や工場の人がやってくれますかネ。他の会社はなかなか、生産調整をすることができないです」と、言われたとき、"へえ、世間の会社ってそんなものなのかな"って不思議に思ったのでした。私は会社へ帰って、生産調整するよう、白井専務ら製作所の幹部に指示しました。三日目には実行。 「始めましたよ」と言ったときの、鈴木氏の感嘆の顔は、こっちが、びっくりするくらい。当たり前のことをと思っていたのですから。前に書いたように、資材、部品が十分の一になったということは、それまでがいかに急をのみ追いかけ、多少ずさんなところもあったということにもなる。が、管理ばかり優先したら、思い切った次々の技術の改良、独創はでなかったでしょうし、あのときまでの急速な発展とその基盤がなければ、今日の本田技研はなかったと思う。
じゃ、誰も企業の初期、そんなふうに、スタートしたらよいか、これは疑問にもならない課題。そこに本田宗一郎が存在したから。火の玉のような社員の固まりが、資材、部品だけでなく。ほかの分野での進歩改善をなしたのは、昭和二十九年まで歩んだ、知恵が経験の基礎となっていたからこそ、できたので、他の会社から人を招いたのでは、こんなに急速に、みごとにはならなかったはず。
社長が「月謝だもんネ」と言いますが、全社員、心の底から、理解してのうえ。二十九年以降も、相変わらず、二人とも前のとおりにはしていましたが、大きく成長した周囲の人たちによって、コナされてきたので、事実上は、大幅な変化相違があったことはもちろんです。これが創成第二期とすれば、役員室開設時点が第三期、四年目位から決裁事後報告の多くなった時点が創成期の終了期。つまり、私達の引退準備期と言えましょう。
私は社長に、私の構想を前もって話をするとか、了解を得るとかしたことはありません。畑違いの人であると同時に、あの人の頭は技術のことでいつもフル回転です。研究、生産技術、工作機械と、驚くほどの知能を、皆に教え込む。「二日寝ない。寝られない。どうも、夜中にエンジンが頭の中で回って、止まらない」などの話は、次の製品への準備なのです。ですから、私の部門まで指示をされるようでは、これだけの急激な技術の上昇はなかったでしょう。また、私も自由な発想がやれないようでしたら、会社にはいなかったでしょう。もちろん、こんな大企業の副社長など思いもよりませんが。
いずれにせよ、この人と逢え、思う一杯にやれ、恵まれた人生を過ごさせしもらいました。
辞任への経緯
今年のお正月頃でしょうか、"かねての通り今年の創立記念日には辞めたい。社長は今社会的に活動されているので、どうされるかは、私からでない方が、判断されるお時間を持たれるでしょうから。--専務から私の意向を伝えてもらいたい"と申し入れました。
が、この人との永い二十四年間の交際で、たった一回の、初めての、そして終りの、大きな誤りをしてしまった。私のことを聞くとすぐ「二人一緒だよ、俺もだよ」とだけ言われたと聞いたとき、まったく恥ずかしい思いをした。
その後あるとき、顔を合わせた。こっちへこいよと、目で知らせられたので、一緒に連れ立った。「まァまァだナ」と言われた。
「そう、まァまぁさ」と答えた。
「幸せだったナ」と言われた。
「本当に幸福でしたよ、心からお礼を言います」と言った私に、
「俺も礼を言うよ、良い人生だったナ」
とのことで、引退の話は終わりました。
いつも、こんな話しかしない二人の間だけど、顔を見るだけでもけっこう楽しい。
奥さんと、家内がまた姉妹のような仲であったのも、仕事をするうえに、大きな助けともなっていたようだ。
社外からの応援
どんな嵐が吹こうと、地割れするかと思われたときも、いつも変らないで、暖かい愛情をこの会社にむけてくださった俗にホンダファンと言われた方がいかに多いか。ありがたいことだ。また、ユーザーほどありがたいものもない。この方たちがCVCC完成のときに喜んでくれた話は、どれほど私たちの胸を打ったことか。
例を言えばきりのない無数の方々の応援があったればこそ、本田技研が一本立ちになれた。
後継者の方も、従業員も、"自分達だけではない"との今までの考え方をいついつまでも続けてほしい。
終わりに
どんな難局の時も、助け、解決してくれて、無事に退陣できるようにしてくれた、新社長になられる河島専務、ならびに専務陣、役員室の皆さんがたに、次の経営を継いでもらえることは幸せなことだったと思っている。
この間、新聞記者から「在職仲いちばん嬉しかったことは」と聞かれた。とっさのこと、それに嬉しい思い出はいっぱいある。返事をどれにしようかと思ったが、やはりいちばん印象も強いし、嬉しかったことは、労働組合創立十五周年記念行事に、社長と二人招かれたことだなと思った。よく信じ、よくやっていただいた従業員の皆さんに、心からお礼を申しあげたい。
ありがとう。重ねて、ありがとう。 これをもって、私の人生のいちばん大事な時、いっしょに釜の飯をともにしてくださったかたがたへ、心からのご挨拶といたします。


藤澤武夫のことば②